と 共に築こうコミューン政府

と 共に築こうコミューン政府
(1871年 パリコミューン)

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 1848年二月革命で共和制になったフランスは、失業した労働者のために国立労働作業場を作るなどして、貧困対策に乗り出しました。ところが、6月にはその作業場が閉鎖され、これにパリの労働者が反発して蜂起しましたが、弾圧されてしまいます(六月蜂起)。
 その後、1851年にナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、翌年には皇帝となって第二帝政を開始しました。
 1870年にプロイセンとの間で戦争が始まります(普仏戦争)。フランス軍はプロイセン軍に簡単に敗北し、皇帝は捕虜となり、第二帝政はあっけなく崩壊します。その後、成立した臨時政府の首班ティエールはプロイセン軍に降伏します。しかし、パリ市民は政府のこの姿勢に不満を持っていました。

 1871年3月18日、ティエールはパリを武装解除するために、労働者の寄付によって設置された大砲を没収しようとしました。しかしこの動きは早朝から仕事を始めた女性たちによって発見されてしまいます。これをきっかけに蜂起が起こり、兵士たちの一部も民衆に味方したために、ティエールたち閣僚や役人たちはパリを捨ててヴェルサイユに逃亡してしまいます。

 そこで労働者や様々な知識人、活動家が中心になって、新しい政府(パリ・コミューン)を作り上げました。コミューンの議員は普通選挙によって選ばれ、その報酬は一般の労働者と同程度とすることが定められました。さらに、初めての女性参政権、常備軍の廃止、政教分離、無償の義務教育、社会保障制度などが打ち出されました。

 しかしながら、ヴェルサイユに逃げたティエール政府はプロイセンと手を組んで、捕虜となったフランス兵を戻してもらい、それで増強した軍隊でパリを攻撃しました。1871年5月21日からの1週間、パリでは凄惨な虐殺がおこなわれ、5月28日、コミューン政府は崩壊しました。

 わずか72日間の政府でしたが、その後の社会運動に大きな影響を与えました。現在もパリのペール・ラシェーズ墓地には、「連盟兵の壁」というパリ・コミューンの死者を偲ぶパネルがあり、その前にはいつも新しい花が絶えません。
(『紅の豚』に登場するジーナによる『桜桃の実る頃』もまた、パリ・コミューンのことを歌っています。)

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