ルイ十四世 ~近世フランス人物伝 十七世紀編(17)~

画像Louis XIV
生 1638年9月5日
没 1715年9月1日

 ルイ十四世といえば「朕は国家なり」(L'Etat,c'est moi.:直訳は「国家、それは私だ。」)という言葉が有名ですが、この言葉が実際に言われたのかどうかは不明です。ウィキペディアでは、「17歳のルイ14世が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に恫喝して有名な「朕は国家なり」(L'État, c'est moi)の科白を言い放ったというエピソードがヴォルテールの『ルイ14世の時代』に記述されている」とありますが、実際にヴォルテールの書いたものをあたってみるとその該当箇所では違うせりふを言っているので、ウィキペディアも当てにはなりません。
 ただ、これが絶対王政というものをみごとに象徴する言葉ではあります。

 ルイ十四世の両親、ルイ十三世とアンヌ・ドートリッシュは不仲で結婚して23年も子どもができませんでした。彼が生まれた時、「Louis-Dieudonné(神の賜物ルイ)」という洗礼名が付けられたのは何かと意味深です。父親はマザランではないかという噂もありました。
 父親のルイ十三世が41歳で早死にしたため4歳で即位したルイ十四世はほとんど物心ついたときから国王でした。しかし、フロンドの乱によってパリを離れることを余儀なくされたルイ十四世は子供心にパリとその民衆に対する憎悪を刻み込み、それがヴェルサイユ宮殿建設の動機のひとつとなりました。さらなる動機のひとつはフーケに対する嫉妬でした。フーケを失脚させた後、その屋敷を設計した建築家ルブランと造園家ル・ノートルを引き抜いて、ヴェルサイユ宮殿の設計に当たらせたのです。このヴェルサイユ宮殿の建築には莫大な費用がかかり、その後の財政危機の原因ともなりました。

 ルイ十四世の側近には、財政ではコルベール、軍事ではミシェル・ル・テリエとその息子ルーヴォワ侯、外交ではユーグ・ド・リオンヌと、有能な人物が揃っていましたが、これらの人物が世を去った治世の後半には、凡庸なシャミヤールがこの三人の役割を務めることになってしまいます。

 ルイ十四世の時代は、数多くの戦争の時代でもありました。ルイ十四世の領土拡大欲は、ネーデルラント継承戦争(1667~68)、オランダ侵略戦争(1672~78)、プファルツ継承戦争(1688~97)、そしてスペイン継承戦争(1701~14)と、四つの戦争を引き起こしました。特にスペイン継承戦争においてはそれまでに獲得した領土を失い、戦費を徒に浪費し、このこともまた国庫を破綻させる原因となりました。

 ルイ十四世の最大の愚策は、なんといっても1685年、フォンテーヌブロー勅令を出して、それまで認められていたユグノーに対する一定の信仰の自由を取り上げてしまったことです。迫害されたユグノーは国外に逃げ、その中には軍人や知識人、富裕な商人も、数多くいました。商人が逃げ出したことでフランスの経済力は衰え、軍人は反フランスの戦争に加わることで恨みを晴らそうとしました。そして、セヴェンヌではカミザールの乱が起きました。
 
 ルイ十四世はその晩年、自分の後継者が次々と世を去っていくのを見なければなりませんでした。息子のルイ王太子は1711年に死に、孫のブルゴーニュ公ルイも1712年に死んでしまいました。唯一残されたのはひ孫のアンジュー公ルイでした。1715年、ルイ十四世が死んだ時、ルイ十五世となったのはこの5歳の幼児でした。

この記事へのコメント

大関泉山
2013年07月30日 13:42
フォンテーヌブロー勅令でアブラハム・デュケーヌ侯のような例外を作られたのはなぜでしょうか。
ルイ14世
2013年07月31日 18:09
大関泉山殿、それは朕の政に対する批判なのか。そなたがわが臣民であればそのような問いは自体許されないところだが、はるばる辺境の地からやってきた者のようだから、特別に許して進ぜよう。

 実のところ、フォンテーヌブロー勅令の例外となったのはデュケーヌ侯一人ではない。王宮に仕えるスイス兵についてもその宗旨に関しては問題にしておらん。
 朕は侯のことを実に惜しんでおる。あの男が自称「改革派教会」なるものを捨てて、正しい信仰に立ち返りさえすればすぐに海軍提督の地位を授けたものを。そうした朕の考えを理解しているはずなのに、あの男はわざわざヴェルサイユまでやってきて、「私が陛下のために戦った時、私の宗教が何であるかは問われませんでした」などと言ったのだ。それでも朕は寛大だから、侯爵の位を与えておいた。
 このような頑固者であるから、フォンテーヌブロー勅令を出した後も、公的な場で決して礼拝を行わないという条件の下で改宗せずにフランスにとどまることを許したのだ。実のところ、あの男は亡命を望んでいたが、もちろんそんなことは許されない。侯はわが海軍のことを知りすぎており、それが外国に漏れたら一大事であるからな。
大関泉山
2013年08月01日 18:41
なるほど。ありがとうございます。
彼がフランス海軍史上特筆すべき軍功を上げながらトゥールヴィル伯などと異なり元帥の位を得られなかったのはそのためなのですね。
しかし同じプロテスタントのションベール(ションバーグ)
将軍を元帥に任命されたのはなぜでしょうか?
フランスが異国出身の人間でも出世できるというところをお見せになるためでしょうか。それとも彼がフランスに帰化したためでしょうか。
ルイ14世
2013年08月04日 23:12
大関泉山殿、あのような者のことは思い出すだけでも不愉快きわまりないが、"noblesse oblige"という言葉がある以上、話さねばなるまいな。

あの男は、フランスに帰化したと言っても、結局のところ、自分がどこかの国に所属しなければならないという観念を欠いた男だった。
プファルツに生まれたが、三十年戦争ではオランダ、スウェーデン、そしてフランス軍を渡り歩いてきた。スペインからポルトガルを独立させた1668年にフランスに帰化した後も、ひたすら戦場の人生を歩み続けた。あの男を元帥に任命したのは、1675年、スペインに奪われたベルガルド砦を奪還したからであった。その功績に比較すれば、プファルツ生まれの男がカトリックでないことは大きな問題ではなかった。フランスが異国出身の人間でも出世できる国だということは、イタリア出身のマザランが宰相となった例からしてもその通りである。
だからこそ、フォンテーヌブロー勅令を出した時、あの男が改宗を拒否しても特別に平穏に軍を引退しポルトガルで隠棲することを認めたのだ。ところが、あの老いたる根無し草は勝手にブランデンブルクへ移住し、そこに亡命したユグノーたちにおだてられて再び軍の指揮を執ったのだ。直接フランスと戦火を交えたわけではなかったが、朕が援助したジェームズ2世と戦ったのだから恩知らずも甚だしいというべきである。

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  • 近世フランス人物伝 十七世紀編(目次)

    Excerpt: (1)フランソワ・ラヴァイヤック (2)マリー・ド・メディシス (3)ルイ十三世 (4)ガストン・ドルレアン (5)リシュリュー (6)アンヌ・ドートリッシュ (7)マザラン (8)ダル.. Weblog: 陽気な日曜日 racked: 2012-04-25 09:10