モンテーニュ ~近世フランス人物伝 十六世紀編(16)~

Michel Eyquem de Montaigne
画像生年月日 1533年2月28日
没年月日 1592年9月13日

 モンテーニュはフランス南西部ガスコーニュのボルドーの近くで生まれました。父方のエイクェム家は代々ボルドーの大商人で、曾祖父の代にモンテーニュ貴族領を買取り、法服貴族の仲間入りをしました。父親のピエールはボルドーの市長を務めたこともありました。モンテーニュは生まれるとまず木こりの家に里子に出され、それから館に戻った後、父親の計らいで、6歳になるまでラテン語のみを使用する家庭教師の下で教育されました。
 6歳から13歳までギュイエンヌ校に通い、その全課程を修了したモンテーニュは、ボルドーを離れて、トゥールーズの大学で法学を学びました。このころボルドーで塩税を巡る不満から一揆が起き、父親は息子に静かな環境で勉学をさせたかったようです。
 1554年、21歳の時に裁判所の参事となり、1557年にはボルドー高等法院の参事となりました。1570年、37歳でモンテーニュはその職を友人に譲り渡し、自分の城に隠棲しました。そこで彼は、若くして亡くなった親友の詩を出版し、また、代表作『エセー(随想録)』の著述に取りかかりました。

 1581年に彼はボルドーの市長に選出され、初めは辞退しようとしましたが、2年だけのことだからと引き受けてしまいます。再選されることはめったにないと彼は書いていますが、彼の場合、そのめったにない再選となり、結局1585年まで市長を務めました。
 モンテーニュはカトリックとしてアンリ三世を擁護する立場で、“宗教戦争”の戦闘に一兵士として参加したこともありましたが、ユグノー派の首領アンリ・ド・ナヴァールとも親しく付き合っていました。1588年、アンリ四世が即位した後、モンテーニュは国王の側近となるよう求められましたが、彼は健康の衰えを理由に断りました。
 1592年の死の直前まで、彼は自著『エセー』に書き込みをおこない続け、最後は近親者や隣人に看取られながら安らかな死を遂げました。

 『エセー』は1676年に無神論的であるとして禁書とされましたが、17世紀末~18世紀初頭を舞台にした『陽気な日曜日』では、主人公ディマンシュをはじめ、ルール氏やシャルロットの愛読書であるということになっており、その断片が紹介されております。
 批判的精神、合理的思考、豊かな教養、そして鋭い人間観察が一体となったこの書物は、現代の人々にとっても読む価値が十分にあると考えます。
 例えば、彼は「済んだ事柄の予言しか存在しない」と言っています。すでに終わってしまった事柄について、あの予言はこのことについて述べていたのだと言って騒ぎ立てるというのは、今でもテレビ番組などでやっているのを見たことがありますが、モンテーニュは400年以上前から、それを辛辣に批判していました。





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