地動説列伝(5)コペルニクス的転換(下)

画像 ポーランドに生まれたニコラウス・コペルニクス(1473-1543)は幼少期に両親を失い、母方の叔父に育てられました。司教である叔父はコペルニクスが聖職者になることを望み、クラクフ大学に入学させました。彼はそこでアルベルト・ブルゼフスキ教授に出会い、初めて天文学に触れたのでした。
 その後、コペルニクスは叔父の計らいで司祭の職を得、さらに法律学を学ぶためにイタリアのボローニャ大学に留学しました。彼はそこで天文学者ノヴァーラ(1454-1504)と出会いました。彼はノヴァーラの家に寄宿して観測を手伝い、天文学について多くを学びました。このノヴァーラもプトレマイオスの天動説に疑問を持ち、修正が必要であると考えていました。
 コペルニクスはさらに医学を学び、司祭として、また医者として多忙な日々を送る事になりましたが、時間を見つけては天文学の観測をおこなっていました。
 彼が初めて地動説を同人誌「コメンタリオス」に発表したのは1510年のことでした。ただこれは数人の数学者に送られただけで、一般に知られることはありませんでした。
 それでも、惑星の動きを説明する上で、地動説の考え方は、複雑きわまる天動説よりもよほど合理的であるとして、だんだん賛同者が増えていきました。
 コペルニクスは地動説についての研究を深めていきましたが、友人たちの強い勧めにもかかわらず、それを出版しようとはしませんでした。
 しかし、オーストリアの数学者ゲオルク・レティクスがコペルニクスの説に感銘を受けて彼の弟子となり、その地動説の概要を1540年に公刊しました。この著書の中でレティクスはコペルニクス自身の手による“完成版”の出版を予告していました。そこでコペルニクスもようやく重い腰を上げて『天球の回転について』を出版することにしたのでした。
 コペルニクスは草稿を完成させた後、脳卒中に倒れ、『天球の回転について』の出版を見ることなく亡くなりました。彼の死の床にこの著書のゲラ刷りが届いたといわれています。しかし、彼としては自分のなすべき事をし終えて満足であったのではないかと思われます。
 
 こうしてみると「コペルニクス的転換」は、コペルニクスの孤独な発見ではなく、コペルニクスに影響を与えた先人たち、そして彼を支持する人々の思いの集大成でもありました。

 コペルニクスに関しては、もうひとつ経済学方面の発見があります。それは、「悪貨は良貨を駆逐する」ということに気が付いたことです。
 当時の貨幣は金貨や銀貨であり、表向きは金・銀の価値がそのまま貨幣の価値となっていました。ところが、混ぜものをした粗悪な貨幣が同時に流通し出すとどうなるでしょうか。人々は純粋な貴金属でできた貨幣をため込み、粗悪な貨幣を支払いに使用するようになりました。当時、教会の財務担当であったコペルニクスはこれに気が付いたのです。
 この事は半世紀後1560年に彼とは独自にこのことに気付いたイギリスのグレシャムによって広く知られるようになりました。(「悪貨は良貨を駆逐する」はグレシャムの言葉です。)

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