イギリス革命(28) 王政復古

 チャールズ1世の息子チャールズ(のち2世)は、議会軍が勝利し国王軍の旗色が悪くなった1646年に母と弟ジェームズと共にフランスに亡命しました。チャールズの母はフランス王アンリ4世の娘で、ルイ14世は従弟にあたります。二人の妹はそれぞれオランダ総督とルイ14世の弟の妻となりました。

画像 父王処刑の後、イングランドの革命に反対するスコットランドの支持を得てスコットランド王に即位しました。しかし、スコットランドに侵攻してきたクロムウェル軍に破れ、再び大陸に亡命します。それからオランダ、フランス、ドイツを転々とした後、1656年にはスペインと同盟を結び、スペイン領ネーデルラントに宮廷を構えました。
 何度も王政復古の試みを繰り返しましたが、クロムウェルが生きている間は成功しませんでした。あちこちの国を転々としたのも、どこでも半ば厄介者扱いされていたからでした。

 しかし、1660年、ランバートを破って実権を握ったモンクがチャールズに連絡を取ってきました。この時にチャールズ側の使者に立ったのがグレンヴィルで、モンクは用心のために王政復古にあたっての条件を紙に書かかずグレンヴィルに暗記させました。
 チャールズはモンクの後ろ盾を得たことを確認すると、ブリュッセル(スペイン領ネーデルラント、現ベルギー)からすぐに脱出しました。これは、当時のイギリスとスペインは敵対関係にあり、スペインからいくつもの領土を奪っていたので、チャールズが王位に就くことがスペイン側に知られたら身柄を拘束され、そうした領土の返還を条件とされるのではないかということをモンクが憂慮したからでした。

 こうしてチャールズはオランダのブレダに移り、1660年4月4日に「ブレダ宣言」を発表しました。これは、モンクの提案にチャールズのもうひとりの側近エドワード・ハイド(のちクラレンドン伯爵)が補足したもので、革命の時期の言動に対しては免罪すること、モンクの兵士に未払い給与を支払うことなどを約束するものでした。
 4月25日、議会では選挙が行われ、王党派が多数を占めました。そこで「ブレダ宣言」は受諾され、チャールズは5月29日にロンドンに入城してイングランド王チャールズ2世となりました。(このあたりは漫画で描いたとおりです。)

 1662年、チャールズ2世ははポルトガル王女のカタリナと結婚しますが、彼女との間に子どもは生まれず(ただし庶子は認知されただけでも14人いました)、それで後継者は弟のジェームズと定められました。

 王政復古といっても、以前のような絶対王政ではなく、議会の決めた法に従う立憲王政であるというのが、当初の国王と議員たちの共通認識でした。しかし、チャールズ2世は次第に議会と対立し始めます。1685年、彼の死後は弟のジェームズが即位しました。(この年、フランスではナントの勅令が廃止されます。)ジェームズ2世はカトリック復活のために公然と専制的に振る舞い、その結果、1688年~89年のいわゆる「名誉革命」で追放されることになります。

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