イギリス革命(26) これまでのまとめ

 このシリーズは、イギリス革命を次の4つの観点で見ることから始めました。

① 政治的・軍事的には、国王派と議会派の対立
② 宗教的には、イギリス国教会・カトリック・プロテスタント(ピューリタン)の対立
③ 経済的には、富裕層・貧困層・極貧層の対立
④ 地域的には、イングランド・スコットランド・アイルランドの対立

 これらは革命で、どうなったのでしょうか。

① 議会派が国王派を政治的・軍事的に圧倒しました。1649年、国王は処刑され、共和制となりました。
 しかし、議会派の中で最も民主主義的な要求を掲げた水平派は、クロムウェルによって弾圧されてしまいます。
 1653年、軍の指揮権を一手に握っていたクロムウェルは護国卿に就任し、独裁的な体制を築いていきます。

② ピューリタンは思想的にも政治的勢力としても革命を推進する原動力となりました。とりわけクロムウェルが指揮した新模範軍には熱心なピューリタンが集まり、国王軍を打ち破るのに大きな力を発揮しました。
 国王を教会の首長とするイギリス国教会は国王の処刑でなりを潜め、カトリックは復古勢力と結びついているとして弾圧されました。

③ 経済的には貧富の差はなくなりませんでした。
 富裕層の中では、封建的な土地制度に依拠するピール(爵位貴族)は没落し、近代的な産業や商業に従事するジェントリー(下級貴族)が繁栄していきます。
 独立自営農民の一部はジェントリー化していきましたが、没落して土地を失う者も現れます。
 農民の貧困の最大の原因となった「囲い込み(エンクロージャー)」は、禁止されるどころか、護国卿時代にはむしろ推進されました。

④ アイルランドとスコットランドはイングランドの侵攻を受け、植民地と化してしまいます。特にアイルランドでは、カトリックが信仰されていたこともあって、残虐な侵攻と過酷な支配がおこなわれました。

 こうしてみると、イギリス革命では、人々が求めていた権利は、提起されただけで、実現しなかったり、不徹底に終わったりしたことがわかります。貧富の差とイングランドによる他の地域の植民地支配は、今日も未解決の大きな問題として残っています

 「ピューリタン革命」と呼ばれるこの革命ですが、そもそもピューリタン(プロテスタント)は、上から(カトリックはローマ教皇、イギリス国教会は国王)の権威の押しつけに反対し、信仰は自主的・自発的なものでなければならないという見地から登場しました。そこからは、国家と宗教とは互いに関わってはならないという政教分離の原則が出てきます。
画像 勤勉の奨励・娯楽の禁止などのいわるゆる“ピューリタン道徳”は、元々各人の自発的なものでしたが、クロムウェルはそれを国家の政策にしてしまいました。それはピューリタンの熱心な信仰の現れと捉えられがちですが、国家権力と結びつき強要された時点で変質してしまったと言わざるを得ないでしょう。

 この革命で生まれた政体は「共和国(コモンウェルスcommonwealth=公共の幸福)」と言います。初めは多くの人が、その「公共」の中に自分自身も含まれていると考え、革命を支持しました。しかし、「公共」は、次第に一部の人々のものでしかなくなっていきます。

 共和国が共和国たり得るのは、やはり民主主義あってのことです。
 クロムウェルが存命の間は、共和国は存続し続けました。しかし、彼の死後、それがあっけなく崩壊していくのは、その体制が彼個人のカリスマに頼っていたからでした。

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