第51話 血戦-1

(これまでのあらすじ)
 一六八五年、フランスの絶対君主ルイ十四世は、信教の自由を定めたナントの勅令を廃止し、カトリック以外の宗教を禁じた。カルヴァン派プロテスタントであるユグノーは迫害を耐え忍んでいたが、迫害の先兵となっていたシェーラ司祭を殺害し、これをきっかけに反抗が組織された。はじめは数十人の規模であったが、ユグノーの住民の支援を受け、数百人から千人以上の部隊へと拡大していった。かれららいつしか「カミザール」と呼ばれるようになった。

 カミザールと国王軍の闘いは二度目の年を越し、一七〇四年を迎えた。国王軍の側は農民の反乱の鎮圧がこれほどの長期戦になるとはまったく考えていなかった。
 一七〇二年七月にシェーラ司祭殺害事件が起こった時、さっそくブログリ伯爵を総司令官とした討伐隊が結成された。しかし、成果を上げるどころか翌年の冬には大敗北を喫し、プール隊長のような手練れの軍人をも失ってしまった。この失態の責任を取らされて更迭されたのが一七〇三年二月末のことであった。ブログリ伯爵に代わって総司令官として任命されたのがモントルヴェル元帥であった。元帥はユグノーの住民そのものがカミザールの母体であると考えて、水車小屋への焼き討ちに象徴される過酷な懲罰を加えた。しかしながら、やはりカミザールを根絶することはできなかった。そこで元帥は宮廷に軍資金の追加と増援をひたすら要求した。
 スペイン継承戦争のまっただ中にあっては、資金も兵士も無尽蔵に湧いて出てくるわけではなかった。それでも宮廷は延べ二万人の兵士をモントルヴェル元帥の要請に応じて派遣した。その中で、カミザール討伐の星と期待されたのがピレネー山脈出身のミクレ兵であった。これは元々、ネーデルラント戦争の最中であった一六七四年にピレネーに侵入してきたフランス軍を大いに悩ませた山岳住民バスク人たちの部隊であった。この時のミクレ兵はスペイン側に立っていたが、ルイ十四世の孫がスペイン王となった今、ミクレ兵はフランス軍の指揮下に編成されていた。

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