セバスチャン・カステリョ ~近世フランス人物伝 十六世紀編(15)~
Sebastian Castellio
生年 1515年
没年月日 1563年12月29日
カステリョは、1515年にジュネーヴで生まれ、若い頃はリヨンで働きながら古典古代の勉学に寝食を忘れて励みました。彼は最初カトリックの信仰を持っていましたが、1540年、リヨンでカトリックの枢機卿によって3人のプロテスタントが火刑に処せられた事件以降、プロテスタントに改宗し、ストラスブールに亡命しました。
この時ジュネーヴからいったん追われてストラスブールに滞在していたカルヴァンと出会い、親交を結びました。疫病が流行った時に病人の介護をしたことからカルヴァンに高く評価され、カルヴァンがジュネーヴに呼び戻された時には彼に誘われて、カステリョもまたジュネーヴに同行しました。
カルヴァンはジュネーヴで教育機関を新設しなければならないと考え、その長としてギリシャ・ラテンの古典的教養を身につけたカステリョが最適と考えました。カステリョもキリスト教の信仰に基づいて古典古代の教養を身につけるというカルヴァンの理想に共鳴し、聖書の物語を題材としたラテン語・フランス語対訳版の教科書を編纂しました。
しかし、カステリョは学校教師でしたが、正規の牧師の資格は持っていませんでした。彼が結婚して家族を養わなければならなくなると、教師としての給料だけではやっていけず、牧師の仕事も務めるよう推奨されました。しかし、ここで彼の雅歌に対する解釈が教会の解釈とは異なるという事態が明らかになりました。結局彼はそのことを理由にジュネーヴを追われてしまいます。
ジュネーヴを追われたカステリョは寛容の雰囲気のあるバーゼルに居を定めました。ここで彼は肉体労働もしながら家族を養い、その合間を縫って古典古代の研究や聖書のラテン語私訳を作ったりしました。1553年、そんな彼の努力がバーゼル大学に認められ、ギリシャ語教授の職を得ることができました。しかし、この年にセルヴェの火刑事件が起こります。この事件に基づき、彼は『異端は迫害さるべきか』という論文を匿名で出版します。
彼は再洗礼派が異端であるとは考えていますが、それに対して死刑や残虐な刑罰で臨むことは正しくないと主張しています。また、すべての財産を共有すべきであるという再洗礼派の考えが広まると反乱が起きるという理由で再洗礼派への死刑を正当化する考え方に対してもこう言って批判しています。為政当局者が人々を搾取で苦しめず、孤児ややもめを守り、公平な裁判をするなら、反乱を恐れる必要はないはずだと。「率直に事実を口にするならば、反乱の原因を作るのは、君公や当局者の邪悪な生活にほかならない。悪人どもが反乱の道具となるのは事実であるとしても、騒乱や反逆運動の主因をなすのは、いつでも為政者の生活ぶりであった」と述べています。

没年月日 1563年12月29日
カステリョは、1515年にジュネーヴで生まれ、若い頃はリヨンで働きながら古典古代の勉学に寝食を忘れて励みました。彼は最初カトリックの信仰を持っていましたが、1540年、リヨンでカトリックの枢機卿によって3人のプロテスタントが火刑に処せられた事件以降、プロテスタントに改宗し、ストラスブールに亡命しました。
この時ジュネーヴからいったん追われてストラスブールに滞在していたカルヴァンと出会い、親交を結びました。疫病が流行った時に病人の介護をしたことからカルヴァンに高く評価され、カルヴァンがジュネーヴに呼び戻された時には彼に誘われて、カステリョもまたジュネーヴに同行しました。
カルヴァンはジュネーヴで教育機関を新設しなければならないと考え、その長としてギリシャ・ラテンの古典的教養を身につけたカステリョが最適と考えました。カステリョもキリスト教の信仰に基づいて古典古代の教養を身につけるというカルヴァンの理想に共鳴し、聖書の物語を題材としたラテン語・フランス語対訳版の教科書を編纂しました。
しかし、カステリョは学校教師でしたが、正規の牧師の資格は持っていませんでした。彼が結婚して家族を養わなければならなくなると、教師としての給料だけではやっていけず、牧師の仕事も務めるよう推奨されました。しかし、ここで彼の雅歌に対する解釈が教会の解釈とは異なるという事態が明らかになりました。結局彼はそのことを理由にジュネーヴを追われてしまいます。
ジュネーヴを追われたカステリョは寛容の雰囲気のあるバーゼルに居を定めました。ここで彼は肉体労働もしながら家族を養い、その合間を縫って古典古代の研究や聖書のラテン語私訳を作ったりしました。1553年、そんな彼の努力がバーゼル大学に認められ、ギリシャ語教授の職を得ることができました。しかし、この年にセルヴェの火刑事件が起こります。この事件に基づき、彼は『異端は迫害さるべきか』という論文を匿名で出版します。
彼は再洗礼派が異端であるとは考えていますが、それに対して死刑や残虐な刑罰で臨むことは正しくないと主張しています。また、すべての財産を共有すべきであるという再洗礼派の考えが広まると反乱が起きるという理由で再洗礼派への死刑を正当化する考え方に対してもこう言って批判しています。為政当局者が人々を搾取で苦しめず、孤児ややもめを守り、公平な裁判をするなら、反乱を恐れる必要はないはずだと。「率直に事実を口にするならば、反乱の原因を作るのは、君公や当局者の邪悪な生活にほかならない。悪人どもが反乱の道具となるのは事実であるとしても、騒乱や反逆運動の主因をなすのは、いつでも為政者の生活ぶりであった」と述べています。
この記事へのコメント
ディマンシュが再洗礼派について研究していたことを思い出して13話を読み返すと、カルヴァン師と共に名前が出ていました。
カルヴァン師とセルリ師が似ているとすれば、カステリョ師はディマンシュと似ているのかもしれませんね。16世紀の宗教者が、ここまで合理的な思想を持つに至ったのは、誠実さ故でしょうか。1540年の事件でプロテスタントに改宗したことから、そんな感じがします。
20世紀の革命家に似たような苗字の人物がいますが、彼の最も大事にしているものは「誠実さ」だそうです。
私は元々聖書に立ち返ることはたいへん重要なことだと考えていました。だからプロテスタントに対しては一種の共感を抱いていたところ、それを権力で弾圧する出来事が起こったので、カトリックを見限ったのです。
カルヴァン先生にはたいへんお世話になったのですが、「雅歌」についての解釈でどうしても譲れなかったんです。私はあれはまったくもって率直な恋歌だとしか考えられなかったのですが、カルヴァン先生をはじめ教会のみんなは、キリストと教会の間の聖なる愛を比喩的に表現したという伝統的な解釈に固執していました。それで牧師には向いていないとされ、一応「名誉除隊」の形でジュネーヴを出て行くことになったんですが、その時カルヴァン先生は、この「雅歌」の解釈以外については私の「生活ぶりは非の打ち所がない」と、「推薦状」で書いてくれたんです。まあ、私のそういうこだわりが、セルヴェ事件においても発揮されたということでしょうか。