カルヴァン ~近世フランス人物伝 十六世紀編(14)~

Jean Calvin
画像生年月日 1509年7月10日
没年月日 1564年5月27日

 ジャン・カルヴァンはフランス東北部のピカルディの生まれで、祖父と二人の伯父は職人で、父親は事務員から始まって、カルヴァンが生まれた頃には教会の参事会の要職に就任していました。母親は裕福な宿屋の娘でしたがカルヴァンが幼い時に亡くなってしまいました。典型的な新興市民の家に生まれたカルヴァンでしたが、大貴族のノワイヨンの司教との家族的な交流があり、彼らの一族とともに初等教育を受けました。
 カルヴァンは14歳の時に故郷を離れ、パリやオルレアンでラテン語や古代の教父たちについて徹底的に学び、豊かな教養を身につけました。

 この当時、ギリシャ語やヘブライ語を学ぶというだけでパリ大学の神学部はそれを異端と見なしていましたが、当時の国王フランソワ一世は、ギリシャ・ローマの古典に関心を持つ人文主義的な傾向を持っていたので、それに対抗して新しい知の拠点としての「王立教授団」を結成しました。若きカルヴァンは聖書を原語で読みたいという熱意に駆られて、その新しい大学に通い、ギリシャ語、ヘブライ語をものにしていきました。ギリシャの古典に対する関心も深く、1532年、彼はセネカの『寛容論』についての注釈を書き上げ、それを初めての自分の著作として自費出版しました。しかし、この売れ行きは惨憺たるものに終わってしまいました。

 カルヴァンは、聖書の内容に立ち返るべきであるという福音主義の立場に共感を寄せていましたが、カトリック内部にとどまって改革をすべきであると考えていました。しかし、ルターもそう考えて1517年に免罪符に対する批判をおこなったわけですが、ローマ教皇は彼を破門し、新しいプロテスタントの一流派を形成せざるを得なくなりました。そして、カルヴァンにもまた同様の運命が待ち受けることになります。

 1534年に「檄文事件」が起こります。これは教皇などの聖職者を偽善者と非難し、ミサを迷信と断じたビラがあちこちに貼られたという事件でした。王の私室にまでこのビラが貼られたことに激怒したフランソワ一世は、これまでの福音主義や人文主義に対する寛容な態度を一転させました。パリ高等法院に異端審問委員会を設け、18人が火刑に処せられました。身の危険を感じた学者たちは次々とフランスから亡命しました。(ラブレーもこの時に亡命しています。)カルヴァンもこの時にスイスのバーゼルに亡命しました。

 1536年、カルヴァンは、『キリスト教綱要』の初版を出版し、それにフランソワ一世への献辞を序文としてつけました。この序文では国王に対する従順な臣下として謙虚な姿勢を貫いていますが、中身はカトリックに対する綿密で堂々たる批判が聖書に基づいて展開されています。
 この『キリスト教綱要』(初版)はたいへんな売れ行きで、1年で在庫がなくなってしまったほどでした。さらに各国の原語に翻訳され、数年の内にヨーロッパ中に広がっていきました。しかし、カルヴァンは聖書の研究に勤しもうと考えており、彼が著した教会のあり方を実現するための行動に着手しようとはまったく思っていませんでした。彼はアルザスで静かな学究生活を営もうと考えていました。

 そんな彼を実践活動に引き込んだのは、ジュネーヴで宗教改革運動をおこなっていたファレルという人物でした。カルヴァンはパリからアルザスに行こうとしてジュネーヴを通った時、なるべく目立たないようにしていたのですが、ファレルに見つかってしまいました。ファレルは逃げ腰のカルヴァンを捕まえて「あなたは自分の勉強を言い訳にしている」「キリストのことより自分自身のことばかり考えている」と怒鳴り散らし、ついにカルヴァンはこれに屈服して、アルザスに行くのを諦めてファレルと共にジュネーヴで、教会改革の事業に着手することになりました。このように嫌々ながら活動を開始したカルヴァンでしたが、ローザンヌでの公開討論会でカトリックの論客を徹底的に論駁した時から、プロテスタント陣営でも高い評価を受けるようになり、彼自身もその成果に自信を深めたようです。

 1538年、カルヴァンはジュネーヴ市民の反発を受け、ファレルと共にストラスブールに退去します。しかし、ここでもカルヴァンは書斎に引き籠もることはできませんでした。今度はブツァーという改革運動家に説得されてしまいます。ストラスブールではすでに福音主義がある程度行き渡っていたので、カルヴァンの仕事は比較的楽で、市民からの反発を受けることもなく、のびのびと説教や聖書講義をおこなっていました。

 1540年、ジュネーヴで改革派の市民が勢力を拡大し、カルヴァンを呼び戻そうという要請がなされました。それを知ったカルヴァンはトラウマに悩み「絞首台や拷問部屋の方がましだ」と言いながらも、結局ジュネーヴに戻ることを決めました。しかし、この後の彼の苦闘を見れば、彼が言った言葉は当たっていたかもしれません。

 フランスではますますプロテスタントに対する弾圧は厳しくなり、彼の著書『キリスト教綱要』は禁書に定められました。フランソワ一世の跡を継いだアンリ二世は特別裁判所を設置し、ますます弾圧を強化しました。ドイツでは皇帝の権力が強くなり、プロテスタントの諸侯が次々と皇帝の軍門に下りました。小さな一都市ジュネーヴがヨーロッパ中のカトリック勢力から包囲されている状況が一方にあり、また、ジュネーヴ内部の反カルヴァン派の動きもありました。カルヴァンはこうした状況の中でプロテスタントの牙城として都市ジュネーヴを維持しようとして次第に苛烈をきわめていきます。再洗礼派のセルヴェを処刑したのはその最たるものでした。

 カルヴァンはフランスにおけるプロテスタント迫害を阻止する手段として、王位継承権を持ったプロテスタントの貴族アントワーヌ・ド・ブルボン(アンリ四世の父)が主導的役割を果たすことに期待をかけましたが、アントワーヌはカトリック派についてしまいます。ユグノーの貴族たちがカトリックに対してしかけた陰謀に関してもカルヴァンは批判的でしたが、フランスの状況はもはや彼が止めて止まる状況ではなくなってしまいました。1562年に内戦が始まり、それは1563年のアンボワーズの和平で一息つきました。この中休みの状態を見てから彼は死んだのですが、フランスのその後について深い憂慮を持っていたことだと思われます。

 カルヴァンの著作の中で最もカルヴァンの批判的精神や合理的思考が現れているのは、『聖遺物について』(岩波文庫『カルヴァン小論集』所載)ではないかと思います。(これに関しては、慧眼なる読者との対話(4)ですでに述べていますので、そちらを御覧ください。

 カルヴァンの肖像画は、痩せた体躯と顔立ちをいっそう強調するような長い髭と険しい顔つきのものが多いのですが、ここではそうしたイメージとは異なる若いカルヴァンの肖像画を掲載してみました。

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この記事へのコメント

維澄栞
2010年06月15日 00:12
いよいよカルヴァン先生の登場ですか。
セルヴェを火刑にしたあたりの経緯が詳しく知りたいですね。カトリックの弾圧を受けながら、同時に再洗礼派を弾圧していたということは興味深いです。
再洗礼派と言えば最も有名なのはミュンツァーだと思いますが、彼について思っていることなども出来れば。
おっと、先生にケンカを売っているような質問になりましたね。というわけでアッキーに代わって私が出てきましたよ。
ジャン・カルヴァン
2010年06月15日 13:32
維澄栞さん、論争は大歓迎です。再洗礼派は異端中の異端、無神論者であると私は考えております。
セルヴェは20歳の時に『三位一体論の誤謬について』を出版しましたが、そこにおいて、「聖書全体は冒頭から結尾に至るまで人間キリストについて語っている」とか、三位一体を信じる者は「三神論者」であって無神論と同一であるとか、キリストの神性を損なうまったくもって容認できない論を展開しています。そんな彼と私は30通以上の手紙を交わしましたが、彼のその考えは正されることがなかったので、私は「もしジュネーヴに彼が来るなら生きては出て行かせない」と公言していました。にもかかわらず、彼は『キリスト教復元論』なる文書を秘密に出版・配布しました。彼は一度フランスのカトリック異端裁判所で逮捕され死刑判決が出されていたのですが、そこを脱獄した後、私がジュネーヴ市会と破門権を巡って対立していた危機の最中に、私に真っ向から挑戦するかのようにジュネーヴに現れたのです。
私は彼を逮捕させ、火刑に処しました。この点については、私の友人であったカステリョが批判し、また後世私の弟子たちが「贖罪の碑」なるものを建てたことからしても、時代や状況が異なっていれば、そこまでする必要はなかったのかもしれません。
しかし、この時代のヨーロッパでは、彼のような人物は死刑になる他ありませんでした。神聖ローマ帝国のユスティニアヌス法では三位一体論を否定する者は死刑と定められていましたし、カトリックの異端裁判所も彼に死刑の判決を下しました。彼が脱獄したので代わりに彼の人形と著書を火刑に処しています。また、ジュネーヴで最終判決を出す前に慎重を期してドイツとスイスのプロテスタント諸国にも問い合わせを出しましたが、すべてが極刑相当という回答でした。こうした状況の中で、私だけが彼を許すことは到底できなかったのです。
ジャン・カルヴァン
2010年06月15日 13:34
トマス・ミュンツアーについて私は直接会ったり手紙を交わしたことはありません。彼が死んだ時、私はまだ14歳でしたから。彼が農民を率いて一揆の先頭に立ったということは知っております。暴君に対してはそのおこないは正されなければならないとは考えていますが、それを主導すべきはあくまで合法的に選出された民衆の代表者によるべきであって、民衆が直接その任に当たれば、それは果てしない無秩序、無政府状態を招いてしまうと考えています。したがって私は彼を支持しません。ただ、彼もまたそうせざるをえない状況の中であのような行動をとったのかもしれないとは思っています。
きむらのほうし
2010年06月16日 19:54
カルヴァンさん、あの~私は一応ルター派なんですが、再洗礼派の友人がいるんですけど、友人も当時生きていたら火あぶりなんですか?
ジャン・カルヴァン
2010年06月17日 10:16
きむらのほうしさん、その通りです。私が問い合わせを出したドイツのプロ手スタント諸国というのはルター派ばかりで、そこでもみな極刑に値するという返答でしたから。そもそもルター自身もミュンツアーを激しく批判していました。

再洗礼派に対する我々の時代の認識は、重大犯罪に携わったカルトというイメージです。そうした組織に対しては500年後の世界でも一般人は忌み嫌い、公安の監視の対象となっているのではありませんか。

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