プロローグ

 ある朝、彼は、いつもの自分の寝床で静かに横たわっていた。いつもと違うことといえば、彼がもはや息をしていないこと、そして、彼の愛する妻と子が、固く凍りついたような表情をして、彼の手を握りしめていることぐらいであった。
 五十をいくつか過ぎた年齢での死。それは、寿命が尽きるというには早すぎる年ではあるが、彼のおだやかな死に顔には、未練や無念の感情は見てとれなかった。この世での自分の使命を十分果たしてきたという満足感すら感じ取れた。
 しかし、彼の妻は、このおだやかさが気にいらなかった。まだ二十八歳の妻と十歳にも満たない息子を残していくのに、こんなにも心静かに旅立ってしまえるものなのか、という憤りが彼女の胸を満たしていた。
 近所の人々が葬儀に参列し、彼の身体は土に埋められた。この土地の風習に従って、ただの石が一つその上に置かれただけで、十字架もなければ、墓碑銘が刻まれることもなかった。
 参列者が立ち去るまで、彼女は自分の思いを吐露することなく、気丈な女として振舞った。
 しかし、息子とふたりっきりになったとたん、涙が込み上げてきた。彼女は、石の前で夫を思いっきりののしった。彼が生きていた間、なにかもめ事が起こった時、声を荒立たせるのはいつも彼女の方であった。この時も、彼女は、いつもと同じように、言いたい放題ぶちまけた。石は困惑しながらも、ただ黙って嵐が通りすぎるのを耐えているように見えた。生きている時の彼が妻の怒りにはいつもそうしていたように。
 いったん堰を切った彼女の感情はまだ治まらなかった。彼女は手近にあった小石を手に取ると、それを墓石に強く押し付けた。彼女は夫の頭文字を刻みつけていたのであった。その作業が終わると、彼女はようやく一息ついた。
 その時まで母親のすることを黙ってみていた息子が彼女に言った。
「母ちゃん…、腹減った。」
 この言葉で、彼女は死者との対話を切り上げる決心がついた。
「そうだねえ。父ちゃんが病気になってから、ろくなもん食べてこなかったもんなあ。」
 味にうるさかった彼は、料理を妻に任せず、自分で腕をふるっていたのであった。彼女はそのことを少し引けめに感じていた。
「べーだ! あたしにだって、あんたよりもうまい料理が作れるってところを見せてやるよ! 食べたいって言って、天国から帰ってきても、食べさせてやらないよ!」
 彼女は、石にあかんべをすると、少し晴れやかな気分になり、息子を家に連れ帰って、食事の仕度に取りかかった。

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この記事へのコメント

表裏
2006年01月16日 23:31
主人公は誰?女の人?男の子?まだ出てないのかな?続き気になる。
2006年01月17日 13:20
表裏さん、ようこそおいでくださいました。これからもご感想やご質問を自由に書いてくださいね。
主人公は誰? というのは、たいへんいい質問ですね。このプロローグでは、時代や場所をわざと曖昧なままにしてあります。また、具体的な名前も出していません。それは、こうした状況が、いつ、どこででも起こりうる普遍性を帯びたものとして、読者に受け止められることを狙っているからです。だから、主人公がだれなのかもはっきりさせていません。
しかし、これから後の展開を読んでいただければ、はっきりする場面に出会うと思います。これからもよろしくお願いしますね。
いーま
2006年05月17日 01:36
お気に入り登録しました。
2006年05月17日 10:18
いーまさん、はじめまして。お気に入りに登録していただき、ありがとうございます。どんなことでも気軽にコメントして下さいね。

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