陽気な日曜日

アクセスカウンタ

zoom RSS 地動説列伝(8)ティコ・ブラーエ

<<   作成日時 : 2018/06/29 16:52   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 ティコ・ブラーエ(1546-1601) は、コペルニクスの地動説を支持しなかったので、近代天文学の発展においては脇役扱いされている感があります。しかし、実は非常に大きな功績を残しています。それは、どんな理論や発想も観測データに基づく裏付けを必要とするという立場を徹底したことです。それは今日の常識からすればあたりまえのことですが、当時は必ずしもそうではありませんでした。観測の精度も大雑把であったので、理論に合わないところは「誤差」として取り扱うということも珍しくありませんでした。
 しかし、ブラーエは肉眼による観測としては当時の最先端をいく精度を誇っていました。そのために巨大な観測機を作っていたのです。(ガリレオによって望遠鏡が発明される以前の話です)
 
 ティコ・ブラーエは名門のデンマーク貴族の家に生まれました。貴族に必要な学問は戦争や政治に関するものでした。しかし、ブラーエは自然科学に興味を持ち、15歳の頃には親がつけた法律学の家庭教師の目を盗んで、天体観測に熱中しました。
 この当時、遠洋航海が盛んになり、そこで船の位置を定めるために惑星の運行を知ることが船乗りたちの生命に関わる重大事となっていました。しかし、これまで作られたどの天体表も(コペルニクスのも含めて)、不正確なものでした。ブラーエはこの表の粗雑さに我慢ができず、自分でより正確な観測をしていこうとしたのでした。
 ブラーエは家族に反対されても天文学に熱中し続け、研究のために国外に出ました。23歳の時にはドイツで「大四分儀」を設計し、職人たちに作らせました。これは半径が5.5メートルもあり、持ち運びに40人を必要とするというものでした。正確な観測のためにはまずはそれを可能にする器具を求めたのです。
 ブラーエはまた自分の伴侶に平民の女性を選びました。このことも当時の貴族としては異例のことでした。デンマークの法律では、平民である彼女とその子どもたちは貴族としての権利を受け継ぐことができなかったのです。それでもブラーエは自分の意志を貫きました。
 ブラーエが自然科学に携わることへの数少ない理解者は母の兄で、彼はこの人物を通じて錬金術を学びました。錬金術といっても、ブラーエは製薬の分野に関心を持ち、実際に薬を作っては求める人々に無料で分け与えてました。
 
画像 そんなブラーエをもう一度天文学の世界に引き戻したのは、1572年11月11日、突如現れた「新星」でした。この星は金星に匹敵する明るさを示し、数ヶ月後、肉眼では見えなくなっていきました。
 超新星爆発に関する知識は当時はありません。しかし、ブラーエはこの星を綿密に観測した結果、月よりも遠い宇宙空間で起こった現象であると結論づけました。
 それは「視差」を利用したものでした。地球上の遠く離れた場所から同じ天体を観測すると、見える角度が異なるのです。月に関してはその視差が最大約1°と測定できました。しかし、その「新星」に関しては視差は測定できず、したがって月よりも遙かに遠いところにあると考えたのです。
画像 1573年、ブラーエが研究成果に基づき『新星について』を発表すると、大評判になりました。すると、デンマーク国王フレデリック2世が彼の研究に全面的な援助を申し出ました。国王はデンマーク北方のヴェーン島をブラーエに与え、ブラーエはそこでウラニボルク城を建設しました。それは天文台・研究室・客間・個人の住居を兼ね備えた総合研究所でした。そこでかつて作った「大四分儀」よりもさらに巨大な「壁面四分儀」を備え付けました。彼はここで二十年以上にわたって研究生活に勤しみました。
 ブラーエは宇宙モデルの構築において、「視差」を重視しました。そして、コペルニクス説に関しては恒星の視差が観測できないという理由で退けましたが、一方で独自の宇宙モデルも考案していました。決して観測だけの人ではなかったのです。

 ところが、彼を庇護した国王が亡くなると、若い王とその取り巻きはブラーエを国外追放にしてしまいました。ヴェーン島は没収され、ウラニボルク城は取り壊されてしまいました。
 しばらく不遇を託っていたブラーエでしたが、友人たちの尽力で、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世という新しい庇護者を見つけることに成功しました。
 プラハで彼は再び総合研究所を設立しました。そこには何人もの人間が助手として雇われました。その一人がケプラーでした。
 ケプラーが発表したコペルニクス評価に対して、ブラーエは否定的でした。にもかかわらず、ブラーエは彼を雇ったのでした。
 ブラーエとケプラーは仲が悪く、対立することも多かったという資料が残されており、そこからブラーエの死はケプラーによる暗殺だったのではないかという説も出されています。ただ、その説の根拠となった水銀による死亡は今日の再鑑定で否定されています。
 それにしてもブラーエはなぜ、自分とは異なる意見を持つケプラーを雇ったのでしょうか。助手は他にも何人もいましたし、宮廷数学官という地位を得ているブラーエが生意気な態度を取る若い研究者を追い出すことは簡単だったと思われるのに…。

 ここから先は想像ですが、真理の解明のために「視差」を重視したブラーエは人間関係にもそれを適応したのではないかと。「視差」を観測するには自分ひとりだけではできず、自分とは異なった地点の他者を必要とします。つまり、ブラーエはケプラーにその「他者」を見いだしたのではないか、と。
 実際、ケプラーは、ブラーエと出会い、その資料を受け継ぐことなしには、ケプラーの三つの法則を発見することはありませんでした。ケプラーを手元に置くというブラーエの判断は真理への扉を開いたのです。
 ケプラーの晩年の小説『夢』の中には、ブラーエが主人公の少年の偉大なる師として登場します。それはケプラーからのブラーエに対する謝辞であったのではないかと思うのです。



ケプラー疑惑?ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録
地人書館
ジョシュア ギルダー

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ケプラー疑惑?ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

望遠鏡以前の天文学
恒星社厚生閣
クリストファー・ウォーカー

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 望遠鏡以前の天文学 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
地動説列伝(8)ティコ・ブラーエ 陽気な日曜日/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる